【運営委員の活動】(海南プロジェクト)映画「二十二」に関するコメント
※下記の声明は、ふぇみ・ゼミ&カフェ(ふぇみ・ゼミ、ゆる・ふぇみカフェ)の運営委員である熱田敬子と梁・永山聡子が参加する外部の活動「海南プロジェクト」による声明です。依頼によって、ふぇみ・ゼミのHPにて発表の場を提供し、掲載します。
映画「二十二」の上映に対するコメント
海南プロジェクト(熱田敬子、米田麻衣、梁・永山聡子)
私たちは、中国・山西省、海南島、朝鮮半島などの日本軍性暴力/性奴隷制について調査、研究、記録してきた研究者、ドキュメンタリー映画制作者のグループです。この度、関西クィア映画祭で、中国のドキュメンタリー映画「二十二」が上映されたと聞き、とても残念に思っています。「二十二」は、被害者の闘いを消し去る効果を持つドキュメンタリー映画であるからです。
「二十二」は2014年から撮影をはじめ、当時生存していた中国の名乗り出た「慰安婦」被害者を全員撮影するという映画でした。中国では空前の大ヒットとなり、興行収入は一億元を超えた人気映画です。
今まで私たちが批判を表立って書いて来なかったのは、中国でこのようなテーマの映画が撮られ、多くの人々に被害者の存在を知らせたこと自体には意味があるかと思っていたからです。しかし、加害国・日本の映画祭で上映するとなると、話は異なります。
「二十二」の問題点は多くありますが、まず、映画の中で1990年代からの山西省と海南島の対日裁判闘争のことがほとんど触れられていません。裁判の原告は4人出演(葬式のみ撮影が別に1人)していますが、この人たちも映画の中でほとんど話していません。
現地に行って、裁判闘争を経た人と経てない人は、お会いするとまったく権利意識が違うのがよくわかります。裁判闘争を経た方たち(残念ながら現在は全員亡くなりました)は、なぜ日本から人が訪ねてくるのか、話すこと、自分たちの様子を映像に収めることがどんな意味を持つのかよくわかっていらっしゃいました。そして、裁判をしていなくても、被害について、聞かなくとも何度も語る方もいました。怒りと、裁判闘争や名乗り出を通じて取り戻した権利意識を持っていました。
「二十二」の映画では、被害女性たちは、かわいい、けなげな、監督の言葉を借りれば「素朴」で「普通」の老人たちとして描かれ、このような怒り、闘う姿は消されてしまっています。
この点について、中国山西省の被害者遺族は監督と映画、その監修をした蘇智良氏(上海師範大学)を激しく批判しています。中国で過去最高のドキュメンタリー収益を上げた「二十二」が、収益を「慰安婦」被害者のために使うと広く宣言する中で、出演している人にだけ出演料を支払い、この問題の問題化に大きな貢献をした今は亡き原告たちに対して何の手当もないのはおかしいという趣旨です(注1)。
農村の社会に生きている遺族にとってはお金という形でしか、要求を表現することはできませんでした。しかし、本質的には、「二十二」がなぜ裁判闘争という大きな運動を無視したのかということです。「二十二」の監督は、この遺族たちの要求に対して、「自分が会ったことも撮ったこともない人たちに、なぜお金を払わなければならないかわからない」と、映画界の出演料ルールのみにのっとった回答をして突っぱねています。
この件は中国でもある程度報道されたものの、もともと裁判闘争の大事さが社会的に共有されていない中で、よいことをした監督と、ごねる被害者遺族のような構図が作られてしまいました。最終的に上海師範大学から、原告遺族にも2万元ずつを支払うとなったものの、監督はやはり理解していないのがとても残念です。
それから「慰安婦」という言葉です。韓国や台湾の文脈と違い、中国の被害者をすべて「慰安婦」と呼んでいいのかはずっと議論になってきました。まず、最初に国際的に名乗り出た中国の被害者・万愛花さんが、「自分は『慰安婦』ではない。『慰安婦』と呼ばれることは二次加害である」と言い続けてきています。
中国の被害者には、慰安所ではなく、前線の私設レイプセンターや日本軍の掃討などの中での戦場強姦、ゲリラに対する性的拷問の被害にあった人などが非常に多いのです。その人たちは「慰安婦」という言葉を戦後初めて聞き、この日本軍目線の言葉に驚きました。被害の多様性を消さないためにも、当事者の感情としても、「慰安婦」という言葉ですべての被害者を呼ぶべきではないのです。しかし、映画は「二十二」人の「慰安婦」とまとめてしまい、その被害状況の差異を見えなくしています。
最も大きな問題は、長年山西省で被害者を支援し、裁判につなげる役割を果たした一人である農村の支援者に、「過去を語るのは彼女たちにとって恥である。その恥を彼女たちは周囲にも、全国の人にも知らせてしまった。それは彼女たちにとって良くないことだ(注2)」と語らせ、被害が恥であると再度繰り返していることです(今回の日本の上映に関しては、この言葉を語った支援者自身から、私たちに当てて連絡がありました。この映画に協力したことを大変後悔している、日本で上映されるのが心配だという趣旨です)。
他にも名乗り出た、生存している被害者だけに焦点を当てていること(名乗り出られなかった人、生き延びられなかった人の方が多いのです。台湾の「慰安婦」人権博物館・阿嬤家などは旧館の展示デザイン自体にそのことを取り入れていました)、被害者を「数」としてみていること、都市の中間層が見たい「農村」を描いていることなど、「二十二」の問題点は多くありますが、やはりなにより歴史無くして語れない問題を、歴史抜きに撮り、被害者の怒りを脱色したドキュメンタリー映画であるということが問題です。
「二十二」の映画を見た人にはぜひ批判的な視点を持ち、被害者はかわいそうな存在ではないということ、勇敢に闘った被害者の姿を思い出してほしいと思います。そして、上映するならやはり具体的な現地の文脈、運動の歴史を踏まえてほしいと願っています。このように闘う被害者を否定し、歴史を捨象した「二十二」をそのまま上映したら、被害者を無力な保護の対象とみる傾向を促し、被害者の怒りから目を背け、政治問題化すまいとする日本社会を後押しすることになるからです。
(注1)王春,2019-07-09「被部分“慰安妇”子女讨钱,纪录片《二十二》导演郭柯回应」(『红星新闻』)
(注2)「她们能说出自己的过去/在她们来说是一件耻辱的事情/她们这件耻辱的事情让周围的老百姓甚至全国人都知道了/对于她们来说是一件不好的事情」
※こちらの声明は一度、9月21日にgoogle driveの共有機能などで公開しましたが、2023.11.10に下記の追記を掲載するとともに、ふぇみ・ゼミHP掲載に当たって一部修正・補足いたしました。
<追記 >
上記の声明を発表後、この映画に出演している韓国人写真家・安世鴻さんからご連絡をいただきました。安世鴻さんは、日本の敗戦後、中国に置き去りにされた朝鮮人の被害者たちを、2001年から5年かけて探し当て、写真を撮り展示会開催、写真集を出版するなど、精力的に日本軍性暴力を問い続けています。(2023.11.10)
安世鴻さんからのメッセージ:
この映画に自分も出演しているのですが、被害女性の正義を獲得するために写真家の役割を果たしているに過ぎないのに、かわいそうな被害女性を救う「救済者」のように描かれていることに違和感を持っています。
さらに、山西省の被害者の曹黒毛さんの家で「二十二」制作チームに会った時に問題を感じました。制作チームは被害者の周辺状況を考慮しないまま、30人を超えるスタッフが村を訪れていました。その結果、村は大騒ぎになりました。 制作チームが村を去った後、被害者たちは、村人たちの視線に耐えなければいけませんでした。 その後、被害者とその家族に対して、県の職員が「あなたの家に、他の地域の人たちを招き入れて村に騒ぎを起こした」として注意したそうです。
「二十二」制作チームの映画制作方法が、被害者の立場を考慮せず、2次被害を与えていることに疑問を呈し、批判をします。