反性差別と「性別二元論」批判を切り離したフェミニズムの失敗を繰り返してはいけない【道徳的保守と性の政治の20年】

2017.10.16 16:00 WEZZYに掲載

 「男女共同参画社会基本法」が制定した1999年前後から巻き起こったフェミニズムへのバックラッシュ。このバックラッシュ派は、現在アンチLGBT運動を行っている団体とかなりの部分で重なることが確認されています。

 8月5日に行われた公開研究会『道徳的保守と性の政治の20年—LGBTブームからバックラッシュを再考する』で発表した東京大学の飯野由里子さんは、当時フェミニズムがバックラッシュ派に「性差を否定するものではない」と対抗したことで、「性別には男と女しかいない」というジェンダーの二元論的な考え方を再生産し、性的マイノリティに対するフォビアを強化してしまったのではないか、と指摘します。

 「LGBTブーム」と言われる昨今、わたしたちは当時の反省をどう活かすことができるのか。飯野さんの発表を紹介します。

【道徳的保守と性の政治の20年—LGBTブームからバックラッシュを再考する】

フェミニズムが批判への応答で見落としたもの

 こんにちは。飯野由里子です。やや前向きなメッセージが発せられた遠藤さんの発表と違い、私のお話は「いったんバックラッシュが始まると、お互いから学び合うこと自体が難しくなる」という内容になります。

 私が男女共同参画社会基本法のことを知ったのは、アメリカの大学を卒業し日本に帰国した1999年5月のことです。その時初めて基本法を読んで「これは問題があるのではないか」と感じました。

 例えば前文の「男女が性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができるのが男女共同参画社会である」は“能力主義的”だと感じましたし、第六条「男女共同参画社会の形成は、家族を構成する男女が、相互の協力と社会の支援の下に、子の養育、家族の介護その他の家庭生活における活動について家族の一員としての役割を円滑に果たし、かつ、当該活動以外の活動を行うことができるようにすることを旨として、行われなければならない」も“家族主義的”なところがあります。きっとこうした論点は、今後フェミニズムや女性学の中で議論されていくのだろうと思っていたのですが、その直後にバックラッシュが始まってしまいます。

 バックラッシュ派による自治体の条例、ジェンダーフリー教育、性教育などを攻撃する言説がマスメディアで取り上げられるようになったのは、2002年くらいだったと思います。そうした中、日本女性学会から『Q&A男女共同参画をめぐる現在の論点』という文書が出されます。ところがこの内容にも私は疑問を覚えました。

 Q&Aは、バックラッシュ側から出ている典型的な批判に対して女性学会、あるいはフェミニズム側から回答を行うという形で構成されています。いくつか例をあげてみましょう。

批判1:「ジェンダー・フリーは、男らしさ/女らしさを全否定するものだ。」
回答1:「ジェンダー・フリーは、男はこうあるべき(たとえば、強さ、仕事・・・)・女はこうあるべき(たとえば、細やかな気配り、家事・育児・・・)と決めつける規範を押しつけないことと、社会の意思決定、経済力などさまざまな面にあった男女間のアンバランスな力関係・格差をなくすことを意味しています。ですから一人ひとりがそれぞれの性別とその持ち味を大切にして生きていくことを否定するものではありません。「女らしく、男らしく」から「自分らしく」へ、そして、男性優位の社会から性別について中立・公正な社会へ、ということです」

批判2:「世の中は、男/女の違いがあってこそおもしろい。ジェンダー・フリー社会は、同じような人々しか存在しない平板で退屈な社会だ」
回答2:「男/女の違いばかりが人の違いではありません。ジェンダー・フリーの社会は、金子みすずが「みんな違ってみんないい」と言ったような、男性にも女性にもいろいろな人がいる、一人ひとりが多様に違う楽しい社会なのではないでしょうか」
といった形です。

 ここからもわかるように、「ジェンダーフリーやフェミニズムは、男らしさ/女らしさを否定するものだ」というバックラッシュ派の批判に対して、Q&Aは「そうではない」と応えています。「男性優位の社会から中立・公正な社会」「男女間のアンバランスな力関係・格差をなくす」といった文言から読み取れるように、Q&Aでは、特定の人たちに不利益を生じさせるようなジェンダーのあり方が問題だという点は強調されています。しかし、「性別には男と女しかない」とか「誰が男で誰が女なのかは自明である」という考え方−−二元論的なジェンダーの捉え方−−自体を問題視する視点はかなり弱められています。

 このQ&Aで出された見解は、その後のバックラッシュ対抗運動の中でたくさんの人に引用されることで正当性をもつようになります。その結果、「ジェンダーバイアスや性差別をなくしていくことこそが重要である」という視点ばかりが強調され、二元論的なジェンダーの捉え方自体を批判する視点が落とされていきます。しかし、この視点を落としたことが、後のバックラッシュ対抗言説に限界を設けることになった、と私は考えます。

フェミニズムはホモフォビアの問題を取り扱うことに失敗した

 その限界は、バックラッシュ派の「人間の中性化」「中性人間」という言説に対する反応の中に見ることができます。

 バックラッシュ派による「男女共同参画社会は、人間の中性化を目指すものだ」「中性人間を増やして社会や子どもたちを混乱させようとしている」といった主張がマスメディアで取り上げられるようになったのは、2004年頃のことです。きっかけは、「男は男らしく、女は女らしくあるべき」という質問に対して、「そう思う」と答えた若者が他国に比べて著しく低かったという日本青少年研究所の調査結果です。

 この調査結果を受け、読売新聞は社説で「(ジェンダー・フリーは)生物学的な性差に対し、社会的、文化的に形成された性意識を、すべて否定する考え方だ」「男女が異性にあこがれるのは、自分にないものを持っているからだ。子育てに母親、父親による役割の違いがあることは、つとに指摘されている。性差の行き過ぎた否定は、不健全と言わざるを得ない」と主張します。数日後の衆議院内閣委員会では、当時の男女共同参画担当大臣・福田康夫さんらから「ジェンダー・フリーという言葉は男女共同参画では使わないようにしている」「画一的な男女の違いをなくし、人間の中性化の目指すと言う意味でジェンダー・フリーという用語を使用している人がいるが、男女共同参画はそのようなものを目指すものではない」というような答弁が出されました。

 これに勢いづいたバックラッシュ派は、「中性人間」というイメージを通して、異性愛の関係を基盤とした家族形成に繋がるジェンダーのあり方から外れたさまざまな人たち、例えば同性愛者、トランスジェンダー、ノンバイナリーといった人たちへのフォビアをあからさまに表明し始めます。バックラッシュ派は、「中性人間」というイメージを通して、フェミニストを含む人々が意識的・無意識的に共有していたホモフォビア、トランスフォビアをかき立て、自分たちの主張を拡大していったのではないかと私は考えています。

 これに対してフェミニズムの側からは「中性人間などいない」「中性人間は、バックラッシュ派の妄想である」といった反応しかありませんでした。あえてトランスフォビア、ホモフォビアを見ないようにしたのか、それともほんとうに気づかなかったのか、どちらなのかはわかりません。いずれにせよフェミニズム側は、バックラッシュ派が依拠し、利用しているトランスフォビア、ホモフォビアの問題を軽視したのです。

 厳しい言い方をすると、フェミニズムはバックラッシュとの闘いの中で「ジェンダーバイアスをなくすこと・性差別をなくすこと」を優先するあまり、中性人間に対する否定的なまなざしの強化に加担していった側面があるのではないでしょうか。つまりバックラッシュ派が、「ジェンダー・フリー、フェミニズムは、中性人間をつくろうとしている」と批判すればするほど、フェミニズム側は「私たちは性差を否定しているわけではない」「性別をなくそうとしているわけではない」という主張を強化してしまう。しかしそのことが結果的にフェミニズムの定義や目的を狭め、ホモフォビアやトランスフォビアの問題を扱い損ねた、という側面があるのではないでしょうか。

 いま振り返ると、2004年というのは非常に重要な時期だったと思います。なぜなら、この後バックラッシュ派はかなり勢いづいていき、フェミニズム側はディフェンスするのに精いっぱいになっていくからです。  例えば宮崎県都城市が2004年4月に「性別又は性的指向にかかわらずすべての人の人権が尊重され」という一文の入った、当時としては画期的な条例をつくりましたが、この一文は2006年の見直しで削除されます。また2004年8月には、東京都の教育委員会が、都立高校でジェンダー・フリーという用語を使用することを禁止します。この頃には、ジェンダーという用語も攻撃対象となり、有名な先生の中でも、自分の本のタイトルにジェンダーを入れないようにする、と口にするようになっていきました。

 そして2005年12月に出された第二次男女共同参画計画では、「男女を中性化するものではない」「男らしさ・女らしさを否定するものではない」と、バックラッシュ派の意見をくみ取った形の文章が明記されます。この時点で、ジェンダーの二元論的な作られ方を問題とする視点は、反性差別の文脈から完全に切り離されてしまったといえるでしょう。

ブームに乗る中で、不問とされる論点があってはならない

 今日の発表を通して私が伝えたかったことは、反性差別の主張の中にはジェンダーの二元論的な作られ方を問題とする視点も含まれなければならないということです。

 私たちは今度こそ、性差別とホモフォビア、トランスフォビアの問題を切り離さないでバックラッシュに対抗していく必要があります。ジェンダー規範=「男らしさ・女らしさの押し付け」という狭い解釈から脱却し、ジェンダー規範を問題にする時には、同時に性別二元論や異性愛規範の問題も視野に入れるようにしなければいけません。

 また、ホモフォビアやトランスフォビアなどは、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる規範だけではなく、家族や国家、健康をめぐる規範とも深く関連しているということを忘れてはいけません。フォビアを通してどのような家族像、国家像、健康的な身体像が打ち出されていくのか、私たちはアンテナを張っておかなければいけません。「LGBTブーム」と呼ばれる社会状況のもとでは、運動側に「やれるうちにやっておこう。やれるところまでやってしまおう」という思考が働きがちです。それはある程度仕方のないことかもしれません。しかし、そうした思考が強まることで誰のどのような問題が不問にされてしまうのか。このことに注意を向けておく必要があります。

 また「国や政治家と対立するだけではなく、うまく利用していこう」という物言いもよく耳にするようになりました。確かにそれは時に必要なことかもしれません。しかし、メインストリームに受け入れられることで影響を与えていくという戦略をとると、マジョリティに許容可能な形、魅力的な形でしか自己表象できなくなり、結果的に運動の可能性を制限することがあるという点にはもっと意識的でなければいけません。そのような意識を欠いた形でメインストリームに乗っかってしまうLGBT運動は、たとえ表面的にバックラッシュと闘っているように見えても、実は根っこの部分でバックラッシュと手を結び、特定の人たちへのフォビアや差別に加担することになるでしょう。まさに2000年代のフェミニズムがそうであったように。

(取材・wezzy編集部)
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